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 ありふれた日常の中で、小さな発見や、ささやかな喜び、そして悲しみを言葉にすることで、 明日への元気になるような日記が書けたらいいなぁ・・・
母のこと
2019年02月14日 (木) | 編集 |
私の母は金沢の市内の中ではのんびりした田舎に生まれて
短い旅行以外には金沢を離れたことが一度もない

たくさん兄弟がいる中の(私が知っている範囲では二男四女)
末から2番目で

(とはいえ、その世代の方々は兄弟が多いのが珍しくなかったと思うし
 当時は戦争もあり、まだまだ医療も事情がよくなかったので
 他にも亡くなった兄弟がいたのかもしれないけれど、
 それに関しては正確には知らない)

特に上の学校へ進ませてもらうこともなく
若いうちから電話交換手の仕事をし
20歳かそこらで
農家の後継ぎであった父のところへ嫁いできた

父は
若いうちは満州国へ渡って国立の師範学校で資格を取り
ハルピンで教員をしていたけれど
終戦とともにシベリアへ抑留された

幸い2年ほどで生きて帰ってくることができたが
本家の長男だったため
農家を継がなければ農地改革で土地を没収されてしまうため
好きだった教員の仕事を諦めて農家を継いでいた

母は小さな子供が大好きな人だった
道を歩いていて、知らない赤ちゃんを見ても
つい、あやさずにはいられないほど
小さな子供が大好きな人だった

なのに結婚して、私が生まれるまでに10年子どもができなかった


父や母からではなく
伯父さん伯母さん、ご近所の方々から

私が生まれるまでに母が何度も何度も流産や死産をして
生まれて1週間で亡くなった男の子もひとりいるということを
私は幼いころから幾度となく聞かされていた

あなたはやっと生まれた大事な大事な子どもなのだと

実際私は
父にも母にも、
そして、私が14歳になるまで元気で一緒に住んでいた祖父にも
本当に愛情深く大切に育ててもらった



大きくなるにつれて
母の愛情が重くて、負担に思うことも多かった

結婚して札幌や千葉に住んでいたころはまだ
遠く離れた両親が
淋しい思いをしているのではないかと素直に心配だったけれど

金沢に戻ってきて
実家近くに家を建てて定住してから

殊に、父が20年以上前に亡くなってからは

40になっても50になっても
「どこへ行くがや?早よ帰っておいで」と
四六時中私や私の家族のことを気に掛ける母の愛情が
重くて鬱陶しいいと負担に思うことが多かった

なので、私は母にとって大事なひとり娘でありながら
そんなに優しい娘ではなかったと思う


ようやく母に優しくできるようになったのは
母がパーキンソン病や脳梗塞や認知症を
老いとともに患い、
施設のお世話になりながら療養するようになってからかもしれない

母は自分のことより
いつでも私と私の家族のことが何より大切だった人だ

正直すぎるほど正直で
ちょっと空気が読めないところがあるけど

人を悪く言うことも全然なく
よく人のことを感心して
「あの人はずごい人ながや。えらい人ながや」と
褒める話を聞かせてくれた

善良で謙譲の人だ

そして、健康な時はただただ働き者だった


母が肺炎と腎不全のため亡くなった

もう何年も、何度もいろんな場面で覚悟はしてきたけれど

でもまだ
それは今日じゃないし明日じゃない
もう少しだけ先

だと思っていた

母が生きているうちに伝えるはずだった感謝の言葉は
まだ全然ちゃんと伝えることができてなかった

毎日会いに行っていても
それはまだ少し先でいいと思っていた


私がいなければ母は生きていられないだろう
当たり前のようにそう思わせてくれていた絶対的な愛情を
母はずっと私に注いでくれてきたのに。。。。。。


まだいろいろなことが絵空事のように実感がないところもあるけど

母がこの世を去り
自分自身の人生も、ひとつの大きな区切りにあることを
今ぼんやりと感じている



ずっと時系列で書いてきたこのブログというか日記
母のことを書かなければ
この先の日々を綴っていけないので
日付は違っているし
楽しかった連休の福井ミニ旅行の中に突如こんなつぶやきが挟まるけど

この次の更新は
福井日記のつづきから。。。。。。。

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